
公開: 2026年5月20日約 5 分
虎には縞があります。チーターには斑点があります。パンダには白黒模様があります。 でも クマには、これといった目印がありません。 全身がほぼ均一な毛色で、研究者でさえ「この個体は昨日見たあのクマと同じか?」 を判定するのに何時間も悩むことがあります。
ところが 2020 年、その常識を覆す研究が発表されました。AI が、ヒグマの「顔」だけで個体を見分けられるようになったのです。
- ヒグマ 132 個体・4,674 枚の画像を学習し、AI が顔だけで個体識別
- 人間専門家とほぼ同等の 84% 精度を達成
- 個体数推定の 「自動化」がついに視野に入った
クマの個体識別は、なぜ難しいのか
まず素朴な疑問。なぜクマの個体識別はそんなに大事なんでしょうか?
野生動物の管理には 「何頭いるのか」を知ることが、何より基本になります。 頭数が分からなければ、捕獲枠も、保護目標も、人クマ軋轢の予測も、何も決められない。
でも、クマを 1 頭ずつ追いかけて数えることはできません。じゃあどうするか? 定番の方法が 「カメラトラップで撮影して、個体識別する」です。 同じ個体を何回も撮ったら、それを「2 頭」と数え間違えてはいけない。 だからこそ、撮った写真の中で「これとこれは同じクマ」を判定する作業が要となるわけです。
ここで困るのが、クマには分かりやすい目印がないこと。
- 🐅 トラなら縞模様で識別可能(縞は指紋並みに個体固有)
- 🦒 キリンなら斑点模様
- 🐆 ヒョウもチーターも斑点
- 🐻 クマは…毛がほぼ均一
ツキノワグマには胸の三日月模様がありますが、これも個体差が小さく、撮影角度によっては全く写りません。 ヒグマに至っては これといった目印が皆無です。
だから今まで、ヒグマの個体識別は 「経験を積んだ専門家が、目の特徴・耳の形・体の大きさを総合して判定する」という、極めて職人的な作業でした。1 枚の写真の判定に数十分かかることもある。 年間で何万枚も撮れるカメラトラップ画像に対して、これでは人手が圧倒的に足りません。
カナダの大学院生と、4,674 枚のクマ画像
ブリティッシュコロンビア大学(ビクトリア校)の博士課程の学生、メラニー・クラップハム(Melanie Clapham)。 野生のヒグマ研究に長年携わってきた彼女は、ある日こう考えました。
「人間の顔認証 AI が iPhone のロックを解除できるなら、クマの顔だって認識できるんじゃないか?」
彼女が組んだチームには、コンピュータビジョンの専門家 Ed Miller と Mary Nguyen、 野生動物保全学の Chris Darimont が参加。BearID Project という非営利チームが立ち上がりました。
必要なのは大量のヒグマ画像です。彼らはアラスカの カトマイ国立公園と ブリティッシュコロンビア州の クニソンインレット保護区から、 計 132 個体・4,674 枚のヒグマ顔写真を集めました。
これは大変な作業でした。何しろ 「この写真とこの写真は同じクマ」と ラベル付けされたデータが必要。最初の段階で、人間の専門家チームが 全 4,674 枚を見比べて 132 個体に分類しました。これだけで数ヶ月の労力。
AI はクマのどこを見ているのか
Clapham らが使ったのは 畳み込みニューラルネットワーク(CNN)という、 画像認識で最も実績のある AI 技術。Apple や Google の顔認証アプリと同じ仕組みです。
ただし、人間の顔とクマの顔では「特徴の出方」が違います。 人間の顔認証 AI は目・鼻・口の位置関係を主に学習しますが、クマの場合は何が決め手なのか?
Clapham らは AI が「どこを見ているか」を可視化する Grad-CAM という技術を使って解析しました。 すると AI は、人間専門家とは少し違う特徴に注目していることが分かりました。
- 目の周りの皮膚の質感(ヒトの目尻のしわのような)
- 鼻の形・鼻孔の位置関係
- 耳の形と毛束の生え方
- 顔全体のシルエット
「人間の経験的判断」と「AI が見つけた特徴」は微妙にズレており、これが研究者を驚かせました。 AI は人間が言語化できていない、しかし統計的には有効な特徴を発見していた、と言えます。
結果 — 専門家を追い抜く寸前まで来た
論文で報告された主な結果は次の通りです。
| 指標 | 精度 |
|---|---|
| 個体識別の正答率 | 84% |
| 「同じ個体ペア」の判定精度 | 94% |
| 「違う個体ペア」の判定精度 | 98% |
| 処理時間(1 枚あたり) | 数ミリ秒 |
ヒグマ専門家の判定精度は 論文中で 80〜85%と報告されており、 AI はそれと ほぼ並んだと言える結果でした。 「並んだ」ことに大きな意味があります。なぜなら AI は、専門家が数十分かかる判定を数ミリ秒で行えるからです。
これにより、年間数十万枚のカメラトラップ画像を 1 日で全件処理することが現実的になりました。 ヒグマの個体数推定の労力が、文字通り桁違いに軽くなったのです。
なぜ「個体識別」がそんなに重要なのか
個体識別ができると、何が変わるのか。実は、これは野生動物管理の 核心中の核心です。
① 個体数の推定が正確になる
「カメラに 100 回写った」を「100 頭」と数え間違えるか、「20 頭がそれぞれ 5 回ずつ写った」と 正確に把握できるかは、政策判断に直結します。捕獲上限・保護計画の前提が変わります。
② 行動の時系列追跡ができる
「あの個体は去年は山にいて、今年は街に下りた」「子グマを連れていた母グマが翌年は単独」 など、個体単位の物語を追えるようになります。
③ 危険個体の特定
「人を襲ったクマ」と「同じ場所をうろつくクマ」が同一個体かを判定できれば、 管理計画が大きく変わります。北海道の OSO18 のように、特定個体を識別して追跡するケースで威力を発揮します。
④ 遺伝的多様性の評価
絶滅危惧個体群(兵庫・西中国地域など)で、誰と誰が血縁関係にあるかが分かれば、 近親交配の警戒・保護介入の優先順位を判断できます。
日本のツキノワグマで使えるのか
Clapham らの研究はヒグマが対象でしたが、日本のツキノワグマでも同じ AI が使えるでしょうか?
① 技術的にはほぼ可能
ツキノワグマには 胸の白い三日月模様という、ヒグマにはない目印があります。 これは大きな利点で、模様の形・大きさ・濃淡が個体ごとに微妙に異なります。 ヒグマで 84% を達成した AI は、ツキノワグマでは さらに高い精度が出る可能性があります。
② すでに国内でも研究が進行中
環境省・各都道府県の研究機関で、ツキノワグマの個体識別 AI の開発が進められています。 KumaWatch を運営する獣医工学ラボでも、関連技術の研究を進めています( クマ検知 AI とは を参照)。
③ 課題はデータの量
AI 学習にはラベル付きデータが大量に必要です(Clapham らは 4,674 枚を使用)。 日本では公的に蓄積されたカメラトラップ画像のオープンデータが乏しく、これが普及のボトルネックです。 自治体・研究機関・市民科学が連携する仕組みが求められています。
AI の弱点 — まだできないこと
84% という数字は素晴らしいですが、AI には正直に向き合うべき限界もあります。
- 夜間 IR 撮影に弱い: 学習データが日中の自然光画像中心で、赤外線映像では精度が落ちる
- 季節変化に弱い: 春に痩せた個体と秋に太った同じ個体を「別」と判定することも
- 幼齢個体の追跡が難しい: 子グマは成長で顔つきが急変する
- 「学習データに無い顔」に弱い: 新しい個体を「既知の誰か」と誤判定することがある
- 地域個体群を超えた汎化が未確認: アラスカで学習した AI が、日本のツキノワグマでそのまま動く保証はない
次の 10 年で起こりそうなこと
Clapham 論文が発表されてから 5 年が経った 2026 年現在、技術はさらに進化しています。
- 顔だけでなく、体型・歩行パターン・耳の傷など複数特徴の統合で精度向上
- 少数データで学習できる few-shot learningで、地域個体群への適用が容易に
- リアルタイム識別: スマートカメラに AI を内蔵し、現場で即座に個体識別
- 市民科学への展開: 一般市民がスマホで撮った画像を送り、AI が自動で個体識別する仕組み
- クマ以外への展開: シカ・イノシシ・タヌキなどの個体識別にも応用が広がる
今日からあなたができる 3 つのこと
- クマの目撃情報を「写真付き」で投稿する — 個体識別 AI の学習に貢献できます。 KumaWatch の 出没情報の投稿や、各自治体の専用フォームから写真投稿が可能。
- カメラトラップ研究を応援する — 自治体・大学・NPO のカメラトラップ事業に 市民として関与(土地の貸出、視察・寄付)することで、AI 学習用データの蓄積が進みます。
- 「同じクマが何度も来る」現象に注意 — 個体識別 AI が普及すれば、 「あなたの家の周辺に来るあのクマは、隣町でも目撃されているあの個体」と分かるようになります。 詳細は クマ研究のモニタリング技術を参照してください。
参考文献
- Automated facial recognition for wildlife that lack unique markings: A deep learning approach for brown bears(本号メイン)Clapham, M., Miller, E., Nguyen, M., & Darimont, C. T. (2020). Ecology and Evolution 10(23): 12883–12892.DOI: 10.1002/ece3.6840 →
- Automatically identifying, counting, and describing wild animals in camera-trap images with deep learning(カメラトラップ AI の基礎論文)Norouzzadeh, M. S., Nguyen, A., Kosmala, M., et al. (2018). PNAS 115(25): E5716–E5725.DOI: 10.1073/pnas.1719367115 →
- BearID Project — Clapham らの非営利開発プロジェクトbearid.org →
※ 本記事の解釈は獣医工学ラボ編集部の責任において行ったもので、原著者の主張を完全に再現したものではありません。 学術的に厳密な議論が必要な場合は必ず原典をご参照ください。本シリーズへのご意見・取り上げてほしい論文のご要望は 運営情報のお問い合わせ先まで。
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この記事は KumaWatch 編集部が執筆しました。実際のクマ対策にあたっては、各自治体の最新情報・専門家の指示・現地ガイドの判断にも従ってください。
