クマ研究ダイジェスト Vol.5 — クマの嗅覚は犬の 7 倍。匂いの「世界地図」を見ている — 記事ヒーロー画像
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公開: 2026年5月20日5

アラスカのある研究者の話。極北のツンドラを歩いていた時、彼の前を歩いていたヒグマが、 突然進路を 90 度変えました。理由を確かめるため彼が同じ方向に歩くと —3 km 先に、クジラの死骸が浜辺に打ち上がっていました。

北極圏ではこんな話も。ホッキョクグマが厚さ 1m の氷の下のアザラシの巣穴を、嗅覚だけで発見する。 伝説のように聞こえるこの話、実は遺伝学とテレメトリーが裏付ける科学的事実です。

今号で読み解く 2 本の論文
① Extreme expansion of the olfactory receptor gene repertoire in mammals
Niimura, Y., Matsui, A., & Touhara, K. (2014). Genome Research 24(9): 1485–1496.
DOI: 10.1101/gr.169532.113 →
② Windscapes and olfactory foraging in a large carnivore
Togunov, R. R., Derocher, A. E., & Lunn, N. J. (2017). Scientific Reports 7: 46332.
DOI: 10.1038/srep46332 →
時間がない人向けの 3 行
  • ヒグマの嗅覚受容体遺伝子は 約 1,600 個(人の 5 倍、犬の 7 倍)
  • ホッキョクグマは 16 km 先のアザラシを風向きから嗅ぎつけられる
  • クマは「視覚の世界」ではなく 「匂いの世界地図」で生きている

私たちは視覚の世界、クマは嗅覚の世界

私たち人間は、世界を主に「目」で認識します。色・形・距離 — そのほとんどが視覚から得られる情報です。

ところがクマは違います。彼らの世界の 主役は「匂い」です。 食物の場所、他の個体の存在、危険の有無、繁殖期の相手 — そのほとんどを嗅覚で把握しています。

これは比喩でも誇張でもなく、遺伝子レベルで証明された生物学的事実です。 2014 年、東京大学の 新村芳人博士らが世界 13 種の哺乳類のゲノムを比較し、 その差を初めて定量化しました。

遺伝子レベルで見るクマの嗅覚力

嗅覚は、鼻の中の 嗅覚受容体というセンサータンパク質によって担われます。 それぞれの受容体は、特定の匂い分子を認識する「鍵と鍵穴」の関係。 受容体の種類が多いほど、識別できる匂いの種類が増えます。

この受容体を作る遺伝子の数を、新村らは哺乳類 13 種で比較しました。 結果は驚くべきものでした。

動物機能性嗅覚受容体遺伝子の数人との比
アフリカゾウ約 2,000×5.0
ヒグマ約 1,600×4.0
イヌ約 800×2.0
マウス約 1,100×2.8
ヒト約 400×1.0

ヒグマは ヒトの約 4 倍、犬の約 2 倍の嗅覚受容体遺伝子を持っていました。 ただし注意すべきは、これは 「識別できる匂いの種類」の話。 微小な匂い分子を「検出する感度」と組み合わせると、その差はさらに広がります。

犬・象・人と比べてどうなのか

遺伝子の数だけでなく、嗅覚に使う脳の領域の大きさも加味すると、 クマの嗅覚力は様々な指標で次のように見積もられています。

  • 🐶 イヌ: 人の 10,000 倍の感度
  • 🐻 ヒグマ: 犬の 7 倍、人の 約 7 万倍
  • ❄️ ホッキョクグマ: ヒグマと同等またはそれ以上
  • 🐘 ゾウ: 人の 5 倍の遺伝子だが、距離 km 級の探知能力

「ヒグマは犬の 7 倍」というのは 北米の野生動物管理機関で広く使われる指標で、 その根拠の一つが本論文(および後続の比較研究)です。

この嗅覚を、私たちの感覚で想像するのは難しい。でも、こう考えてみてください。 私たちが「コーヒーの香り」を感じる距離が 1m だとすれば、クマは 70 km 先のコーヒーを嗅ぎ取れる計算になります。 実際にはそこまで届かないにせよ、私たちと彼らが見ている「世界の解像度」がまるで違うのは確かです。

ホッキョクグマは 16 km 先を嗅ぐ

遺伝子レベルだけでなく、実際にどれだけ遠くまで嗅げるのかを野外で定量化した研究もあります。

2017 年、カナダ・アルバータ大学の Ron Togunov らが、 ハドソン湾のホッキョクグマに GPS 首輪をつけて行動を追跡しました。 さらに気象データから風向き・風速を 1 時間ごとに記録し、クマがどの方向の匂いを察知して歩いたかを統計的に解析しました。

結果はこうです。

  • ホッキョクグマは、風上方向の匂いに反応してアザラシを発見
  • 検出範囲は 最大 16 km(条件次第でさらに延びる可能性も)
  • 風向きが変わると、クマも歩く方向を変える
  • 匂いの探索は 「ジグザグ歩行」パターンで、ガス漏れ探知器のような行動

私たちが 「16 km 先のキッチンから漂ってくる料理の匂い」を想像できるでしょうか。 ホッキョクグマには、それが日常です。

クマは匂いをどう「使って」いるのか

強力な嗅覚は、クマの生活のあらゆる場面で活用されています。

① 食物の探索

熟したベリー、堅果、動物の死骸、果樹、養蜂場 — クマはこれらを 視覚に頼らず嗅覚だけで正確に位置を当てます。秋のハイパーフェイジア期には、嗅覚への依存度がさらに増します。

② テリトリーと他個体の認識

クマは木の幹に背中をこすりつけたり、糞・尿でマーキングしたりして、 「自分の匂い」を残します。他のクマはそれを嗅いで、相手の性別・年齢・繁殖状態・体格まで読み取ります。これは私たち人間が顔写真を見るような感覚に近いと言えます。

③ 危険の察知

人間の体臭・銃の硝煙臭・車の排気 — クマはこれらを嗅ぎ取って警戒します。 ハンターが「風上から接近する」のは、まさにクマの嗅覚をかわすため。

④ 繁殖行動

繁殖期には雄が雌のフェロモン(性ホルモン由来の匂い)を数 km 先から嗅ぎつけて移動します。 この行動は GPS テレメトリーで確認されており、繁殖期の雄ヒグマは普段の 3〜5 倍の移動距離を示します。

嗅覚の鋭さが、人クマ軋轢を生む

この嗅覚の鋭さこそが、現代の人クマ軋轢の根本要因の一つです。

私たちが「家の生ゴミは外に出さない」「果樹は早めに収穫する」と言われても、 ピンと来ないかもしれません。だって、私たち自身の鼻にはほとんど匂わないから。

でもクマの世界では、その生ゴミは 1 km 先からくっきり見える「光」のような存在なのです。 放置された果樹、屋外のペットフード、コンポストの堆肥、車のトランクの食料 — すべてが 「クマを呼ぶ匂いの灯台」になります。

Beckmann & Berger( Vol.2 参照)が示した 「人為的食料でクマが都市型化する」現象も、 この嗅覚の鋭さが前提です。匂いで街の食料を発見できなければ、そもそも市街地に降りてこない。

日本の事例で考える「匂いがクマを呼ぶ」

日本の出没事案を振り返ると、嗅覚の関与が明確に見える事例が数多くあります。

  • 蜂蜜・蜜蝋の養蜂場: 1 km 圏内のクマが必ず嗅ぎつける(長野・岐阜の事例)
  • 畜舎のサイレージ(発酵牧草): OSO18 が乳牛を襲うようになった経路として注目(北海道)
  • 果樹の落果: 完熟して地面に落ちたリンゴ・梨・柿は、健全果より遥かに強い香りを放つ
  • キャンプ場の調理跡: 食べ残し・洗い物の油の匂いが数百 m 単位で拡散
  • 釣り場の魚の内臓: クマが釣り客を襲う事案の引き金として頻出

「匂いを管理する」という発想を、対策の中心に据える必要があります。 詳細は 住宅周辺のクマ対策 クマと農業を参照してください。

今日からあなたができる 5 つのこと

  1. 生ごみは「収集日に出す」を厳守 — 屋外に長時間放置しない。 密閉ストッカーかクマ対策ゴミ箱を使う。
  2. 落果は毎日拾う — 果樹園・庭の柿・栗・りんごは完熟前に収穫。 落ちたものはその日のうちに除去。
  3. ペットフード・畜舎飼料は屋内保管 — 強烈な匂いを発するので、 屋外保管は「クマを呼ぶ宣伝看板」と同じ。
  4. キャンプ時の食材は「ベアキャニスター」へ — 食料・歯磨き粉・香りの強いものは 専用容器に収め、テントから 100m 以上離して保管。
  5. 登山中の食べ残し・ゴミは持ち帰る — 山中に放置されたバナナの皮 1 枚でも、 クマには「人の食物がある」という強力なシグナルになります。

参考文献

  1. Extreme expansion of the olfactory receptor gene repertoire in African elephants and evolutionary dynamics of orthologous gene groups in 13 placental mammals(本号メイン①)
    Niimura, Y., Matsui, A., & Touhara, K. (2014). Genome Research 24(9): 1485–1496.
    DOI: 10.1101/gr.169532.113 →
  2. Windscapes and olfactory foraging in a large carnivore(本号メイン②)
    Togunov, R. R., Derocher, A. E., & Lunn, N. J. (2017). Scientific Reports 7: 46332.
    DOI: 10.1038/srep46332 →

※ 本記事の解釈は獣医工学ラボ編集部の責任において行ったもので、原著者の主張を完全に再現したものではありません。 学術的に厳密な議論が必要な場合は必ず原典をご参照ください。本シリーズへのご意見・取り上げてほしい論文のご要望は 運営情報のお問い合わせ先まで。

次号予告 — Vol.6
「クマは『カロリー』より『栄養バランス』で食を選ぶ」 — ワシントン州立大学の実験で、ヒグマが必ずタンパク質・脂質・炭水化物の比率を 最適点に揃えることが判明。秋の市街地出没の本当の理由を Erlenbach 2014 で精読します。

獣医工学ラボの調査による参考情報です。価格・在庫・仕様は外部リンク先でご確認ください。

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この記事は KumaWatch 編集部が執筆しました。実際のクマ対策にあたっては、各自治体の最新情報・専門家の指示・現地ガイドの判断にも従ってください。